自然体に還れる家 - Jパネルの家造りで私が得たもの -
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-埼玉県飯能市在住 熊谷淳-
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■木の家との出会い
満天に星空が広がる夏休みのある日。「きょうはペルセウス流星群が見られるんだって」と妻から聞いた。
「よしっ、2階のバルコニーに布団を敷いて、みんなで流れ星を探しながら寝よう。」子供たちの目が輝いた。
無垢の杉板が張られたバルコニーに敷布団を2枚並べ、4人で詰め合って仰向けに寝る。
都心は熱帯夜だろうが、山中の我が家はすぐ脇の清流からの風が涼しい。長男の滋(3歳)は素っ裸で、昼間の遊び疲れでもう眠っている。
「あっ、流れ星見つけた!」。家族の中で一番視力が良い長女の優里(7歳)が南天を指さした。
我が家は内と外とが緩やかに繋がっている。気が向けば食事をとり、布団を敷いて寝るバルコニーとデッキは、外の空間だが家の一部でもある。
広い玄関土間と間仕切りなく続いている居間も、窓や戸を開け放つと半屋外になる。サワラの床板に林立する杉の5寸柱は、戸外の杉木立と連続しているようだ。
そして甘い香りを放つ杉 のJパネルに包み込まれた室内は、淡く蜜蝋色に染まり、森の胎内にいるかのような暖 かさを感じる。
(左)1階デッキからの眺め。真夏でも涼風が吹き寄せる、我が家で最も癒される場所だ。
(右)デッキは緩やかに室内ダイニングへとつながり、ともに食事をする空間となる。卓袱台も余ったJパネルで製作した。
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それまで10年間過ごしたマンションはこの家と対照的な空間だった。
無気質な新興住宅地の中でひときわ目を引く、インド砂岩で組み上げた城郭のような外観。
建物は中庭を囲んでロの字型に配置され、街路に面したバルコニーさえ壁で囲って外部環境を遮断している。
一方、内部は特殊ラーメン構造のため柱や梁は一切なく、無限に広がる白で統一されている。
設計したイタリア人が「アンジェロ(天使)」と名付けた通り、周囲の環境から隔絶し、まるで雲の中にいるかのような浮遊感があった。
以前住んでいたデザイナーズマンション「カーサ・アンジェロ」(天使の家)。天使が羽を広げ、飛び立つような外観だ。
ドラマチックな空間に一目惚れして購入し、生活はしばらくときめいた。
しかし、天井を支える一本の柱も見えない不安感から、建物が自分の重さに耐えかねて一瞬にして崩れ去るのではないかという妄想に囚われたりもした。
幼い娘は「お城みたい」と気に入っていたが、どこか地に足のついていない、私たちの現実逃避的な生活を象徴する「砂の城」のようでもあった。
転居を決意した当時、私は人生観を転換する必要に迫られていた。
そして心に溜まった垢を落とし傷口を洗う強力な「癒し」を求めていた。それまで社会的成功や華やかな生活にあこがれ、足下を見てこなかった。
40を越え、自分の限界が見えるようになり、深い挫折感を味わった。四肢に力を入れ背伸びを続けていた強迫的な生き方を捨て、肩の力を抜き、
本来の自分に立ち返りたかった。
建築家の寺林省二さんに設計を頼んだのは、高校の同級生だったという理由だけでなく、
こだわりを持ちつつも自然体で生きる姿勢に憧れていたからだ。
私は「癒し」の地として清流のある飯能を選び、用地の選定から寺林さんに手伝ってもらった。
彼は、図面のやりとりを通じて、姿勢が定まらない私を誘導しつつ、彼の思想と私の求めている可能性を重なり合わせ、形にしてくれた。
家造りは妻との共同作業でもあった。
専業主婦の妻はまた違った意味で、私と正反対に地で生きていた。男の虚栄や世間体とは遠い位置にいる。
生ぬるいロマンを捨てきれない私に、妻は生活者の視点で対抗し、図面をはさんでたびたび深夜まで激論を交わした。
完成途上の図面は常に鞄に入れて行き帰りの電車でひもといた。
仕事にやりがいを見失いつつあった当時の支えが図面だった。
家造りの過程を通して、自分のそれまでの生活や仕事、家族と改めて向き合い、これからの人生に何を望むのか考えさせられた。
それは、長年かけて身にまとってしまった重ね着を一枚一枚脱ぎ捨て、素の自分に還るための準備だったように思う。
こうして、建築家と妻の導きによって、私の新しい人生の見取り図が姿を現した。
1年以上かけてできあがった基本設計図は驚くほどシンプルで飾り気がなかった。
派手さを好む私には物足りなく感じたが、よく見ると非凡な設計であることが分かった。
開口部やバルコニー、デッキがやたらと多く、内と外の空間がつながっている。内部はがらんどうで、間仕切りや扉がほとんどない。
玄関土間はけじめなく居間に直結しているし、部屋と廊下の区別もなく、1階と2階は吹き抜けでつながっている。
あちこちに常識破りがあるのに、それでいて奇をてらわない自然さがあるのはどうしてだろう。
日本家屋の基底にあるシンプルかつ合理的なプランにあるようだ。
この空間で暮らしてみて実感したのだが、どこにいても家族の気配が感じられる。
自然や気候の変化、近隣の人たちの動きも、部屋にいながら手に取るように分かる。
家族間のつながりや、家族と自然、家族と近隣社会とのつながりが実感できるのだ。
素材選びにも建築家はこだわった。なるべく自然に近い良材を使うこと。
柱や梁といった構造材を安易な建材で覆わずに露出させること。
私はもともと木の骨組みや節だらけの板壁が迫る家には抵抗があった。無骨で馬小屋みたいだからだ。
だがそれは偏見だった。
今、無垢のサワラの暖かみのある床板に横たわり、規則的に立ち並ぶ五寸柱が巨大な梁をしっかりと支えているさまを見上げると、
言いようのない安心感に満たされて心が落ち着いてくる。
外部の環境と途絶し、雲の中のようにフワフワとしていたかつてのマンションの居室とは、まったく異質の感覚だ。
設計と素材とは一体であることを知った。
こうした「木の打ちっぱなし」の家に最もあった工法として徳島県産スギを使ったJパネル工法が採用された。
建築家からこの提案を受けたとき、正直言って戸惑った。家を建てる飯能は「西川材」と呼ばれる杉の産地として関東では有名だ。
それなのになぜわざわざ徳島材を使うのか。
その理由は、品質や価格の点でJパネルにはメリットが多く、西川材のJパネルはないこと、
徳島産の杉は国内でも高品質と認められており、徳島も埼玉も気候は似通っているので西川材にこだわる理由はない、ということだった。
Jパネルは集成材とはいうものの、杉の無垢材を三層に重ねて貼り合わせたもので、見た目は自然素材そのものだ。
太い柱の間にパネルを落とし込んでいく独自の工法は構造的にも強く、断熱性や遮音性にも優れているという。
私は節が多いのはうるさいと思っていたので、日中過ごす1階は無節のパネルにしてもらった。
だが、この配慮も今となっては不要だったと感じている。
生命の痕跡を残す木目や節の語りかけは決してうるさくはない。それをうるさいと感じ白壁に閉じこもっていた自分の心が、
自然から遠ざかっていたのだと思う。今では豊かな木目の表情に生命の暖かさを感じる。
Jパネルを採用したおかげで、販売元である徳島県物産販売東京事務所の佐々木芳和さんと貴重な出会いを経験できた。
佐々木さんはフレンドリーな性格で、まるで自分の家を建てるように心から家造りを楽しんでいる様子がうかがえた。
材料選びに妥協せず、徳島と東京を往復し、私たち夫婦と建築家の想像を上回る太くしっかりした柱、梁材を揃えてくれた。
また、重量感のある骨組みをしっかりと支える土台作りにもこだわり、
近所の人からも「ビルが建つみたいだ」と言われるほどの基礎工事を手配してくれた。
十分な説明を受け、建築過程を見てきたおかげで、我が家は世間を騒がせている手抜きや偽装とは無縁だと確信できた。
事実、小さな地震が起きても、台風が来ても、大型トラックが家の前を通っても、我が家はピクリともしない。
木造住宅でもこれほど安定感があるのに驚いている。
上棟したばかりの我が家を背景に。徳島県産のスギは力強く、美しい。近所の見物人からは感嘆の声が上がっていた。
(左から)寺林さん、筆者、佐々木さん。手前は長男の滋。
木工事を請け負ってくれた棟梁の茂木哲夫さんの仕事ぶりには皆が脱帽した。
家づくりが成功するかどうかはほとんど大工で決まるという。
とくに構造を丸出しにするJパネル工法では内壁を張って手抜きをごまかすことができないから、
大工の腕次第で見栄えが大きく変わってしまう。
茂木さんは神業とも言える技量と誠実な職人気質で難工事を完璧にこなしてくれた。
階段は力いっぱい踏んでもきしまないし、構造材も造作も床板も1ミリの隙間なくぴったりとくっついている。
仕事中は近寄りがたいような威厳を備え、ポーカーフェイスで作業をするが、
実は見えないところで「そこまでしなくても」と言うような大変な努力をされていたことを後日関係者から聞かされた。
茂木さんと接して、怠惰な我が身を恥じ、仕事に向かう姿勢を反省させられた。
そして、少ない予算をやりくりし、茂木さんはじめさまざまな腕の良い職人さんを手配し、
自宅から遠く離れた現場に足を運んで監理・監督してくれたシンプリイホームの佐藤輝夫さん。
金もないのにこだわりの強い施主をはじめ、建築家、職人からさまざまな注文をつけられて、並大抵の苦労ではなかったと思う。
苦労を顔に出さず、工費が思いの外かさんでも誠実に処理してくれた。
少ない予算を補うのに佐々木さんが提案してくれた妙案があった。
私たち夫婦と佐々木さん、寺林事務所のスタッフでウッドデッキの塗装工事を担当したのだ。
我が家にはウッドデッキが4カ所もあるから、並大抵の量ではない。
炎天下、丸2日がかりで関係者の方々と汗を流した経験は、家造りの過程の中でも最良の思い出になった。
ところどころまだらな仕上がりのウッドデッキは、家造りに関わった人たちの優しい心遣いの象徴だ。私はそれを自慢に思っている。
理想の家は金さえ出せば建つものではない。たくさんのすばらしい方たちとの幸運な出会いがあり、支えられたからこそ、
本当に望んでいたものが手に入ったのだと思う。
完成した我が家を背景に。前夜、労いの会を催して泊まっていただいた関係者の方々。
素顔の茂木さんは意外にも話し好きでサービス精神に溢れた方だった。
前列左より筆者、長女の優里、妻、寺林さんの奥様、後列左より佐々木さん、茂木さん、寺林さん
さて、転居して3ヶ月。生活はどう変わったのか。「癒し」は私が想像していたのとは違ったふうに訪れた。
これまで私が想像していた「癒し」は、眺めの良い部屋でゆったりと音楽を聴きながら、
誰にも邪魔されずに物思いにふけったり本を読んだりするというものだった。しかしそれは実現しなかった。
というのも、子供たちはますます元気になり私を放って置かないし、
常に開け放たれた玄関からは当たり前のように近所の子供や猫までも入ってくるからだ。
通勤に時間がかかることもあり帰宅は深夜になるのだが、朝は階下で子供が騒ぐから寝坊していられない。
天気の良い日は朝日を浴びる清流の景色があまりに美しいから、強制されなくても自分から早起きするようになった。
早起きできるのは熟睡できるせいでもある。
川のせせらぎを子守歌に、力強くかつ優しいJパネルの木肌に包まれていると、一瞬で眠りに落ち、夜中に目覚めることもない。
居心地の良いわが家に一刻も早く帰りたいから、仕事帰りにパチンコ屋に通う悪習も絶つことができた。
休日の朝も、「少しでも長く寝ていたい」から「寝ているのはもったいない」へと変わった。
電動のこぎりを買い、工事で余った7枚のJパネルを材料に、座卓や学習机、整理棚、ブランコなどを次々と製作している。
夏の一番暑い時間帯は子供と裏の川に出かけ、10メートルの高さの岩壁から何度も川に飛び込んで泳いだ。おかげで真っ黒に日焼けし、持病のぜんそくも軽快している。
自宅裏を流れる入間川の清流で。岩鼻から飛び込む長女の優里(小1)。
夏の間、近隣住民は子供から大人までカッパになる。
川遊びの後、子供たちに占領される我が家の木風呂。川に隣接し、泥だらけのまま外から直接入れる造りになっている。
それまで避けがちだった人付き合いも広がった。
面白い家が建ったというので近所の人たちが見学に来て、それを縁に食事をしたり酒を飲む。
付近に遊具のある公園がないから、吹き抜けの梁に吊した手製ブランコは近所の子供たちを自然に招き寄せる。
短期間でこれほど交流が進むとは予想もしなかった。実はこれも建築家が仕組んだことで、「近隣になじめる家」というコンセプトが奏功したのだ。
街路に向かって開かれたコの字型の、自然と人を集める設計。建坪が大きくて目立つ分、両隣より高さを低くして、おじぎしているように慎ましく見える外観。
無用な自己主張をなるべく減らし、我が家は周囲の自然と町並みに見事に調和している。
自然や人との交流を通じて、私の求めていた「癒し」は無意識のうちに進んだ。今では「癒し」という言葉を気にかけないほど癒されている自分に気づく。
自然や人とつながることで固い心の殻が破れ、本来の自分に還りつつあるのだろうか。
家の内部は大体片付いた。今は備中鍬を振るい、妻とともに中庭の土を耕している。
生まれて初めての経験なのに、何故か心や体が動作を記憶していたように感じられる。いや、きっと体がこの動作を求めていたのだ。
日曜大工に畑作り、子供との遊び。かつては時間の無駄と思えたことに、今では無心に没頭できる。
この家に暮らしていると、知らず知らずのうちに生活が落ち着きを取り戻し、だれもが自然体に還って行くようだ。
とくに自然体からほど遠い人生を送ってきた自分にはなおのことその効果が大きいように思われる。
新しい生活は始まったばかりだ。
この暮らしが、家族の未来をどのように創り、いかなる果実をもたらすのか。目の前にある時間を大切に、ゆっくりと味わいたい。
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